2012/10/11

「アシュリー事件」を閲覧して

児玉真美さんが書かれた「アシュリー事件」を読みました、ではなく閲覧しました。 ちゃんと読もうと、amazonやら紀伊国屋で入手しようと予約中ですが、どこも取り寄せ状態で、出版社に在庫があってもしばらく時間がかかりそうです。

いままでの経験からは最悪、入手不可も有り得るんじゃないかなと危惧しています。

2012年10月11日 追記:
10/11の時点では、アマゾンと紀伊国屋のオンラインストアで入手可能と情報が変更されています。 無事に入手できそうです。

さて入手できないなら図書館で内容を確認しようと思いつつ、Webで串刺し検索が出来るのは非常に便利なのですが、福島県内の公立図書館では郡山女子大と福島市立飯館分館、南相馬市立の3個所にしかありません。

pandaboardが5V2Aでは安定して動かないという情報もあったので確認がてら、pandaboardとc920を車に積みつつ、飯館までドライブがてらいってきました。

ここで自分の意見を表明しておくと、こういう処置には反対で、本人の意思が確認できない状態であったとしても、生命の危機がない限り、こういう不可逆的な対応をするべきではありません。

その理由は、この本の中で引用されているいくつかのアシュリーの親に否定的な意見に含まれています。

ただ、一点だけ、私には介護の経験がないし、そのご苦労は想像する事もできません。 この文書を書くにあたり、個人を非難する気はなく、アシュリーとその家族を心からいたわりたいと思います。

しかし、この問題の構造については考えてみる事にします。

この本を読んだ理由

最近は科学の生い立ちやら疑似科学の定義を求めて哲学寄りの本を読んだりしているので、その影響もあって興味を持ちました。

でもアシュリー事件そのものについての情報を知ったのは完全に偶然で、もうよく覚えていません。 たぶん脳死による臓器移植を尊厳死に広げるとかいう、そういう話について検索していて、児玉さんのブログがひっかかったのだと思います。

そして、この子供に対して行なわれた治療なのか判然としない処置について、その効果が本当にあるのかどうかという点を確認するために本を閲覧しに行きました。

父親が肯定的に捉えている様子から効果があるのかなと思いつつ、年齢を考慮すると、訴えているような苦痛が発生するずっと前に対応しようとしている様子が異常に思えました。 「効果がないんじゃないのかなぁ…」と思い、この本で確認したいと思いました。

この本から得られる情報

著者である児玉真美さんの考えが全面に出ているはずなのに、書かれている内容は裁判官や哲学者、社会学者などの発言などを元に、様々な意見が掲載されて、バランス良くまとめられています。

調べたかった、この治療が効果的だったのか、という点については、年齢からまだ効果が不明ところがあり、また、エストロゲンの大量投与などの処置に対する否定的な意見がいくつか掲載されていました。

元々が医療上の必要から選択された理由ではありませんから、否定的な意見に説得力があるのも当然かもしれません。

これから起こるかもしれない不安に対する過剰なリアクションが、この問題を異様にし、また引き立てているのだと思います。

閲覧を終えて

この本を眺めて、私は知的障害を持つ人間に対する基本的人権や尊厳をどの観点で扱うかという事が論点だと理解しました。

論理的に説明をつけて論を展開するのは、もうすでにこの本の中で様々なものが取り上げられています。

主観的には、この障害者や両親の立場に自分の気持ちを投影して、それぞれの立場で考える事になるんだと思います。 「(本人の苦痛や気持ちが分からないのに処置をされて)かわいそう」、「(世話をする親が)つらそう」、等々、どちらの立場から考えるかによって結論は分かれる可能性が大きい話題だとは思います。

これが本人意思の表明が明確に伝われば尊重しましょう、という事になるんでしょうけれど、知的障害があるというところで、本人の意思が不明なら保護者である親の意見をまずは尊重しましょうという意見も成立しそうには思えます。

ただ通常であれば本人が成人するまで、あるいは判断能力を持つまで待ち、本人の意思を確認する事になるわけですが、それが望めない例であるわけです。

意思があるのかどうか、少なくとも現在の知見では、かなり動物的本能に近い判断能力しか持っていないと考えられる子供をどのように尊重するのか、その状態からの回復の見込みがほぼないという状況であれば、親が子を思って行なうその対応を当然だと考える人もいるでしょう。

しかし考えを進めていくと、どこかに境界があるように思えます。 人間が年齢をかさねて過去には知的な活動をしていたものの、幼児のような状態になり、高度な判断ができないと判断されるようになる人もいます。

アシュリーの事例に適用された考えを使えば、保護する者の意向が尊重されるべき事例ではないでしょうか。 もちろんアシュリーと同じ処置は必要ないですが、問題は処置の内容ではなく、QOL向上のために非医療的な処置を行なう事に説得力があるかどうか、という事になります。

こういう処置が許されるのであれば、その延長線上には、保護者というより庇護する者の意思が優先されるべきだという事になるのだと思います。

将来は延命治療の代りに尊厳死を与えてあげたりするような親切が待っているのかもしれません。 しかしアシュリーのケースは延命やQOLの向上が述べられていますから、尊厳死はいいすぎでしょう。
むしろ、その反対に徹底した延命治療が行なわれると考えるべきです。

しかし、それは良いことでしょうか?

どちらにしても人間としての扱いではないと思います。 たしかに本人の意思を察知、判断する事は超常的なテレパシー能力でもない限り難しいでしょう。

かといって、権利団体が主張するような、親ではない第三者機関が判断するような法整備が行なわれても、確認のしようがないのですから、将来の訴訟を恐れて不可逆的な対応を取る事はないと思われます。 少なくとも積極的な処置をするインセンティブは持たないと考えるのが妥当でしょう。

であれば、痛みや苦痛という状態に至った時点で医療を行なうという事になり、消極的な対応だと捉える事もできます。

しかし、意思を持った人間であれば拒否するかもしれないような過剰な処置を行なうべきでしょうか。 状況が違うというかもしれませんが、それでも現時点では必要がない行為を行なう事に正当性はあるでしょうか。

この本を読んで感じた事は、必要性の証明がおそらくできない行為を行なった事。それは人体実験に近い行為であったこと。医師たちに患者本人を尊重する気持ちがなかったこと。 そして、そういう行為が必要だと考えつくほどに家族が疲弊している現実です。

この本にありますが、家族たちの継続的なケアと本人が家族を失なった後もケアを受けられるという希望を持てる社会を望むべきで、実現のために動くべきなのだと思います。

脳は自分の行為を論理的に整合性を取るように働きます。 場合によってはしてしまった自分の人格と行為の間のギャップを埋めるために、いろんな記憶や感情を捏造します。 この状態であれば家族は行為について論理的に閉じるように、第三者からは容認できないような内容だとしても、理屈を考えるでしょう。

別にIT企業幹部でなくても、自身が生きている間に我が子の将来が保障されない現実を変えられないと悟れば、お手軽な一連の行為を思いついて、実現に全力を注ぐのも理解はできます。

しかし医師たちは家族に流されずに客観的に行動するべきでした。 徹底して患者本人に寄り添って尊重するという原則がこの医師たちにあれば、自分たちの判断に余るこの申し立てについて、裁判所への確認が行なわれただろうと思います。 イギリスの事例はアメリカで認められてしまった(かのようにみえる)事例のため、将来の訴えを恐れて事態が進展したのだろうと思います。

徹底的に非難されるべきはこの医師たちのみでしょう。 それでも自死については、それを選択した理由は分かりませんが、残念な事だと思います。

根源的な性質を持つこの問題は、哲学的な人たちの好奇心をかきたてるでしょう。 しかし一般の人達は、その胸の中に生まれた感情をうまく整理する事ができずに、様々なリアクションを行なうのだと思います。

本質的に解決するべきは、どんな状態で生まれて、どんな状態になっても、人間らしくケアされるだろうという希望のある社会を実現することなのだと悟り、そして絶望して、希望を失いそうになります。

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