2010/11/25

松島x町山 未公開映画祭: 「ジーザス・キャンプ」をみた感想

関東圏で放送されているアメリカのドキュメンタリー映画を紹介するTOKYO MXの番組で紹介された映画が オンラインでみる事ができるようになったので、英語の勉強を兼ねて何本か観ました。

その中で最初に紹介されている番組で、かつ、強烈な印象を残す「ジーザス・キャンプ」をみた感想をメモしておきます。

宗教に対するスタンスとこの映画を取り上げた動機

ここでは個人的な宗教観を元に何かいうつもりはないのですが、切り離す事もできないので、まとめておきます。

私は自然への畏怖の念とか、他人の信仰に対する敬意は持ちますが、現在の私は無宗教と形容するのが適当だと思います。

かといって宗教と無縁かというと、幼稚園から小学校卒業くらいまでの間は伝統的なプロテスタント系の教会とのかかわりがありました。

穏健な環境で、今回取り上げた映画のように、聖書を絶対視するような事は求められず居心地はよかったのですが、引越しを機会に自然と疎遠になりました。

何かを絶対視したいがために、客観的な事実をねじまげかねないような信仰は私の価値観と両立しません。 その点がこの映画を取り上げた理由だと感じています。

さて、感想のまとめ

この映画をみて「嗜癖」、「共依存」という言葉が頭をよぎりました。

嗜癖、共依存の一つの考え方

A・W・シェフの著書「嗜癖する社会」の監訳者まえがきの中で斎藤学さんは、シェフが定義した3つのシステムを次のように簡単にまとめています。

  • 白人男性システム - 「…自分や他人をコントロールするパワーを基本とし、そこから生じる力の階層の存在を信じるシステム」
  • 反応性女性システム -「白人男性システムに奉仕しようとする共依存的態度が生まれてくる。」、あるいは、「自分自身の能力を高めて弱者のレッテルを隠し、白人男性システムのメンバーになりおおせようとする」システム
  • 第三のシステム - この2つから独立した「価値観やルールにとらわれず、自分の性や資質に忠実に生きようとする人々の作る関係」から成るシステム

ポイントは私たちの生きるこの社会が「自分や他人をコントロールするパワーを基本とし」ていると規定する部分です。

映画を宗教とは違う角度からみてみる

神という絶対的存在には無限のパワーがあると考えれば、その無限のパワーを元手に、自分にも転嫁しようとする欲求は、ごくごく自然に思えます。 無限のパワーがあるなら使わなきゃ損でしょう、そんな感じです。

また神の言葉を語る事で、本来の脆弱な自分を覆い隠すことができます。 自分自身のパワー不足を補い、他人にパワーを行使することが可能な存在になるわけです。

映画の中では説教をする時の自分を、自分であって自分ではない存在と認識しています。

子供たちも大人たちも、パワーを指向するシステムの中で信仰を強化するインセンティブを持っている、そういう存在にみえました。

彼らが第三のシステムに存在していれば良いのですが、このシステムはシェフによって前述の定義に加えて「多様で変化し、オープンなシステムの輪の中でとらえられ」るものとされています。 彼らは何かには忠実ですが、それは「自分の性や資質」ではなく、第三のシステムに当てはめることには無理があります。

教条主義的な環境で子供が育つとどうなるんだろう

私は特定の強固な信念を持って疑う事を良しとしない教条主義的な環境で子供が育つ事で、特に思春期の迷いや葛藤を乗り越えるのではなく、迂回してしまい精神的に成長できずに大人になる可能性を心配しています。

いたずらに常に自己を肯定させ、葛藤する事を避ける人達もまた第三のシステムに入れるには、柔軟性が欠けていると思っていますが、いまは映画に出てきた人達を考えます。

この映画に出てくる大人たちをみていると、子供を思いどおりに動かしながらも、適当に楽しんでいるようなので、あまり心配はなさそうです。

しかし、その高みにまで到達できない、この映画には出てこない、素直が故に脱落していく子供たちがいるように思えてなりません。

この固定化した観念の中で折り合いをつけていくには常に正当化や全肯定など、ごまかす事が必要になるでしょう。

信仰によって人間の弱い部分を強化してくれるのは、多くの宗教に共通した側面だとは思います。 しかし映画に出てくる人達は自分自身の前に他人を屈服させる、あるいは王になる瞬間(あるいは王の列席に引き上げられること)を待ち望んでいるようにしかみえないのは私だけでしょうか。

あと気になったところは…

自分の欲求を満したいがために、やたら言葉の前に「イェスの御名によって」とつけているのは目立つところです。

自己の力を誇示したいだけなんじゃないかなって感じるんですよね。

でもそう思うのは、きっと過去の自分の影をいくらかそこにみているんでしょう。

嗜癖しない人などいないし、他人に影響力を持たずにいられるわけもありません。 これは程度(バランス)と、現状を変えていけるFreeな状態にあるかどうかの問題です。

若い人たちには一貫した力強さは魅力的かもしれない。 私みたいにいう人間を一貫性のない頼りないものと思うのかもしれません。

けれど柔軟に自分を変えていく力を一番持っている世代が、自分と異なる考えを、自分の信念だけを根拠に否定している様はみていて嫌な気分になりました。

穏やかなルールと多様性が繁栄につながる、これは私の信念で説明することは困難ですが、悪くないと思っています。

この記事で取り上げた品々

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